『観 -KAN-』

えーと、昨今資料関係は源平中心になっていたりするのですが。
源平の読み物はどうもアウト(汗)なので、何故か南北朝あたりで(や、源平はもう自分イメージが確固としてあるので、他の人の書いた源平は駄目なんだよね、そんだけ)。
通勤利用駅(乗り次駅)でやってた古本市でGETの『観 -KAN-』(永田ガラ メディアワークス文庫)。観―KAN (メディアワークス文庫)
“観”は観阿弥の観ですね。ずばり、若かりし観阿弥太夫17歳のお話でございます。


この本、実は出た時から気になってはいたのですが、どうも正値(や、社割ですが)では買いたくないカンジがしてたのですよね。
メディアファクトリー文庫で気になってたのって、他には渡瀬草一郎陰陽ノ京 月風譚 黒方の鬼』くらいで、しかもこれも、慶滋保胤や保憲さん、光栄やメタボ様もとい安倍晴明etc.のイメージが違い過ぎて、迷ったけど止めたくらい……
今回投げ売りだった(古本ですからね)ので、まァ読んでみるかと思って読んだわけですが。


……うん、何で正値で買いたくなかったか、何となく了承。
この人(=永田ガラ氏)、これがデビュー作だそうですが、巧くないわけじゃあないんだけど、少々不親切だ。
最初の最初、南北朝の簡単な説明の後は、ほとんど社会情勢に言及していない、って云うか、言及してても、我々が学校で習ったような名前や表記を織り込んでいない、と云うか。や、別にいいんですよ、足利直義を“武衛”と書こうが(←どうも、今吾妻鏡を読んでる関係で、“武衛”と云われると佐殿しか思い出せねェ)、南朝方を“宮方”と書こうが。
でもさァ、最初に“先の帝(後醍醐天皇)”とか“六波羅(京における、鎌倉幕府の分庁)”とか云う表記をするんなら、南北朝のあれこれに関して、もうちょっと細かくフォローして欲しかった。
いっそまったく観阿弥の主観で世界を見てるんならまだしも、中途半端に作者視点の注釈っぽいものが入ってるので、その後の北朝南朝、尊氏と直義の動向のあれこれが、ぼやけちゃって全然わからなかった――はじめっから観阿弥視点だけだったら、まだしも諦めがついたのに。
大体、南北朝あたりって、イマイチ人気がない(某国.史.国.文.同.人.検.索だって、平家物語に較べると太平記の登録件数三分の一ちかくだしな)わけだし、その割に状況もややこしいしで、普通に知識のある人間も少ないんだから、きっちり説明してやるか、いっそ作中人物の視点でぶった切るか、ふたつにひとつだと思うんですよね。その辺、中途半端に現代の知識で処理しちゃってるので、少々もやもや感がありました。


あとね、デビュー作だからしょうがないのかも知れないけど、せっかく一人称で攻めてきたのに、クライマックスが三人称ってのはどうか。
観阿弥の一人称で、あの舞のシーンを書き切ったら、総毛立つような物語になっただろうに。
あそこを三人称にしちゃったせいで、どうもこの作者には、あのシーンを書き切る力が不足していたんじゃないかと思わせてしまって残念でした。
っつーか、それよりも、この作者って、このシーン頭で考えて書いたろ? ってカンジか? ここだけじゃなく、ちょっと前の、観阿弥が志津とその仲間たち(?)に××されたシーンとかも、“おれ”で語られながら、もみくちゃにされてる感がなかったので――ああ云う目にあってるんなら、諦念とかがあったにせよ、恐怖とか怨嗟とか悔恨とか、ぐしゃぐしゃした気持ちがすこしはあるはずなのにね。何か、作者の想像力がそこまで至っていないような感じがしてなりませんでした。
まァ、それより何よりクライマックスなんだけどね!
あそこを、舞の狂熱と見物の熱狂、武家の感歎と南阿弥の切歯――それを感じて溜飲を下げるところ、まで込みで、観阿弥視点で書き切れたら、この話はかなり凄い出来栄えになったと思うんだけど。
まァ、それができなかったから、この話は電撃小説大賞の最終選考に残らなかったんだろうけどね。そう云うことだよね。


多分この続篇と思われる『舞王 -MAIOH-』が、今月下旬に刊行されますが――
うーん、まァ、やっぱり正値では買わないと思う。よっぽど表紙にオーラがあれば話は別だけど、イラストレーターさんも、2作目は最初ほどの力は(出来が凄ければともかくとして)入らないだろうから、次がホントの正念場ですわね。
まァまァ、チェックはしますけども――うーん、やっぱちょっと、多分買わないんだろうなァ……
それよりも、高畑京一郎氏の『Hyper Hybrid Organization』の続きはどうなってるんでしょうか……マジ待ってるので、そろそろ出ませんかね。メディアファクトリー文庫なら、あの内容でもいけるだろうに……