うっかりしてましたよ。

大塚英志の新刊をチェックし損なうとは(←しかし、漫画原作は今ほとんどチェックしてませんが)。
朝日のカジュアル読書(またか)ではじめて知りました――でもって、ソッコーGET。本屋って、こういう時楽ですな。

先月のちくま新書の新刊『「伝統」とは何か』――民俗学的な評論、と云っていいのかな? しかも、すごい政治的視点から見た民俗学史。柳田國男といえば赤坂憲雄(の著作)だった自分的には、仲々衝撃的な一冊。と云っても、大塚英志宮田登の弟子なんだよね。だから、正統っちゃ正統なんだよな――やってることはビミョーですが(苦笑)。

まず、今回はかなり難しかった――のは、多分私が近現代史が苦手だからだろう。明治の怪談ブームと日露戦争の関わりとか、常民論と大東亜共栄圏の話とか、視野は広いがついていき難いネタ満載。
いや、でも面白かったです。
どうしても、柳田と云えば『遠野物語』なんですが、この本ではそれにはほとんど触れずに(まぁ、神隠し云々のあたりとかでは噛んでますが)、植民地時代の官僚としての柳田國男、あの時代の牽引者としての柳田國男、を描き出しています。同時に、柳田の変節、と云うか、概念上の用語の変化も追っかけてあったり。
しかし、柳田に(すみません、ここで沈没してました/汗)「公民の民俗学」と云う観念が(用語としてはともかく)あったというのは、やはりすごい人だったんだなぁ柳田國男、という気分になりました。〈公〉という言葉の意味を、一時期の柳田が解釈していたような、西欧的な意味での“public”にすること――つまりは、個人が個人として、己の価値観念の下に地域や国家の政治について考えうるようになること――は、それが公に口にされるようになった戦後数十年を経ても、未だ我々の中に根付いてはいないのかも知れません。進歩ないなぁ。

それに絡めて、昨日(これ書いてるのはもう9日なので)、報道ステーションで見た石原慎太郎のことも含めて論じたいのですが――それは、まだ読み終えてない『サブカルチャー文学論』の続きの評ででも。
でも、現在侵攻中の、米軍のファルージャ攻略作戦と、7月6日の読書日記を絡めてちょっと書いておくと、今、自衛隊イラク撤退に反対な人たちというのは、基本的には戦争に行かなくていい人、行くとは思っていない人、たちなのですよね。それで国際貢献がどうのって、それなら先に、アメリカのイラク侵攻そのものを止めるべきだったと思います。それを勧告できずして、何が対等の同盟国なんだろうと。
今の日本には、独立国としての自尊心はないんだろうなぁ――憲法を作ったのもアメリカだけど、それを改変しろと云うのもアメリカ。それも、アメリカの軍事行動を後押しさせるためで、それはアメリカの利益のため。アフガンの件は、まぁ仕方ない(わけではないはずなんだけど)としても、イラクに関しては、あまりにも盲従しているとしか云いようがありません。
本当の“国際貢献”とは何なのか、過去の敗戦国として何をなすべきなのか、本当に考えてみるべきだと思います。
だから、「何もしないで利益だけ享受するなんて許されない」と云った某職場後輩男子、自分が実際に軍事行動する立場で云えるのかよとは問い返してみたい。誰のための、何のための“国際貢献”なのか――歴史の曲がり角は、もうそこまで来ているのです。

ってわけで、次回はガンガンか、石原慎太郎論で。