毎月恒例。

ガンガンネタばれ。
以下ご注意。

えーと。
うーん、今月は書きにくいなぁ。何と云うか、久住の地雷原に話が突入しちゃった感じで。ええ、荒川氏のせいじゃないんですがね。まったく。

先月のパパの科白を受けて、ママの墓を掘り返すエド&ばっちゃん。掘り返したアレは、黒髪&骨相学的にも「母さんじゃない!」で、アルは元の身体に戻れると確信するエド
……まぁ、それは良いんだけど。
やっぱりね、死者の再生とかって、すごくやだなぁと、改めて思いましたね。五巻目のあのシーン、あたしが大佐なら、まず間違いなくエド殴ってるよ。ごめん、怪我人でも殴る。マジギレするね、間違いなく。
私、プロフィール(サイトの方のね)で好きなゲームに入れましたが、実はヴァルキリー・プロファイルのA-ED(ルシオが蘇っちゃうアレ)が大嫌いでして。死者の再生とか云いますが、あれって本当に元のルシオ(死んだ本人)かわかんないですよね。再生している自分には、それが本当に当の死者本人かを確かめる術はないわけだ。自分の記憶の中の故人、自分から見た故人であって、他の誰かにとってどうかと云う視点はないからね。
いや、例え限りなく故人に近かったとして、それでもかけらも記憶や意識の改讒がないだなんて、一体誰が云えるんだろう。その人の厭だったところを、絶対に撓めたりしないと誰が云えますか? 意識してやらなくったって、人間の意識はずるいから、気づかない振りをして曲げる、絶対に。でも、それって元のその人だって、厳密に云えるんでしょうか?
だから、死者は蘇らせてはいけないんだと思います――例え、その手段が手の中にあるのだとしても。

あの、直接どうこうっていうんじゃないけど、こないだアメリカかどこかで、死んだペットのクローンを作った女の人が出てて、すごい違和感感じた覚えがあります。死んだペットと同じような反応をするその生き物を、その人は嬉しそうに「××が戻って来たんだわ!」と云ってましたが――そうか? そうなのか?
では、例えば今、この私のクローンが出来て、私が生きているのにそれが同じ記憶を持って同じようにふるまっていたら――それは私なんだろうか? 万人にとって?
そして、元がもう存在しないからと云って、クローンを元の存在と同一視するのは、あっていいことなんだろうか?
これは、倫理以前の生理的嫌悪感なんだと思うんだけどなぁ――そうでもないのかしら。まぁ、「なぜ人を殺してはいけないか」が真剣に論議されちゃうようなご時世ですから? 何でもありなのかもしれないけど、しかし、やはり魂――こういう云い方は、激しくアレですが――の問題になるんじゃないかと。
クローンに魂がないとは云わないけれど、しかし、それは原体の持っていた魂とは違うものなんだと思うんだけどなぁ。
これはもう、宗教的な問題なのかもしれませんが。

って、総帥室出張版みたいになってきたな……

ともかく、正直に云って、今回多分一番厭だったのは、エドが作ったのが母親ではないという、(ある意味での)逃げを打たれたことなのかもしれない。出来たものが母親ではなかったというだけで、それを意図した罪が流されてしまうことへの嫌悪というか。
すみません、多分私くらいなんだろうな。
でも、今回ははっきり云って不愉快な展開だった。それは、多分、門馬が「だって〜してなかったんだからさ」と罪をスルーしようとするときの、あの激しい不快感、はっきり云えば憎悪に似ていると思う。結果的に良かったんだからで許されるのか、という感情。怒りと憎しみと、殺意のような。
多分、5巻の大佐の気分って、こんなんだったのかな、と思いつつ、今回の感想はこの辺で。


あ、そうだ、文庫でジャック・デリダが出た(『死を与える』ちくま学芸文庫)ので買ったのですが――いろいろありすぎるので、また日を改めて。