第二部も読みました。

『「芸能と差別」の深層』byちくま文庫(今回画像はパス)。

えーとね、第二部は、芸能民が賤民である理由の考察やら、千利休と堺近辺の賤民の関わりの話やら、竹取物語の南方諸島の民話との類似の話やら。
う〜ん、面白いんだけど、後半になってやや違和感を(話の流れとかに)覚えたのは――多分、私が赤坂憲雄民俗学とやら、網野善彦歴史学とやらの影響を受けまくっているからかしら。
つか、聖と賤の問題というのは、律令制度とか天皇−貴族ルートの恣意なんかでは片付けられない部分があると思うんだけどね。つか、ヨーロッパでも歴史的に見て、芸人はある種の賤視をされてるわけだし、もっとFolkloreと云うか、Ethnologyとかから攻めていくべきネタなんだと思うんだけどなぁ、って、当の芸人と、部落問題を専門にしている学者とでは、そんな視点には行きようがないか……
でもまぁ、聖と賤の西欧的事例といえば、例の「偽王」ってやつですね、祭りの贄にされる代わりに、その前には王侯すらをも凌ぐ権力と権威を与えられ、祭りの後には放逐される、あるいは犠牲に捧げられる、聖なる偽王。雛祭りの流し雛みたいなもんだよね、常民(って云い方は、柳田用語ですが)の穢れを一身に負う、流され王。『金枝篇』とかかな、まだちゃんと読んでないんだけど(あたしの持ってるの、ちくま版だ……)。
あるいは、流れ流れてゆく吟遊詩人たちと、都市に住まう自由市民たち。遊行と定住、ハレとケの鮮やかな対比。
こういうのって、やっぱり賤視される側、乃至はそれに寄り添う側からは見えにくいものなんだろうなぁと思います。つか、賤視する側も、それが“暗黙のルール”化した時から、ベースの事実=常民たちの負の部分の祀り捨て、を忘れていったから、こんなんなんでしょうけども。

今の世の中、祀るべき神もなく、穢れを負うべき賤民も(その本来的な意味においては)存在しないもんなぁ――“狂宴”(オルギア)的なものは、まだ存在してますが――夏・冬とかのオタ祭とかね(笑)。
そう云う中で、役割もなく賤視されるのは、確かにやってらんないよなぁとは思う(そう云う意味では、八瀬童子なんかはマシな方だよね、定められた役割がまだあるから)のですが。
って、この意見は間違ってるかしら。でも、理由がはっきりしてる(かつ納得できなくもない)差別と、理由がうやむやになった差別とでは、はっきり理由のある方が、まだ収まりがつくような気がするんですが――しかしそうすると、ちゃんと理由が対応してたのって、せいぜいが江戸初期までだよね……そのころまでは、まだ遊行芸能民も、頭を上げて歩けてたころだよなぁ……


あれ、変な話になってきたなぁ、つか『影のオンブリア』は?