予定は未定。

貧乏×2と云いながら、誘惑に負けて買ってしまいました、E.M.シオラン『時間への失墜』(国文社 E.M.シオラン選集 4)。時間への失墜 (E.M.シオラン選集)
昔、シオランハマりたてのころ(10年近く前だよ……)、この本、もう版切重版未定だったのに、去年になって改訂版が出てたなんて……! これで、『苦渋の三段論法』(国文社 E.M.シオラン選集 2)が手に入れば、シオランの邦訳は全部集まるんだけどなぁ。あ、対談集(法政大学出版局 叢書ウニベルシタス)を持ってないや。
そして、久々に読み返してみましたが(昔、図書館で借りたことはあるのよ)、やっぱり好きだ。
訳者の金井裕氏は「何度か読みかけの本を叩きつけたことはあった」と初版の後書にて書かれているけれど、そうかなぁ、と思うのは、シオランの"毒"が、非常に知的に抑制された"毒"であって、ネット上の、例えば2ちゃんのスレに見られるような、生の醜悪さとしての、エゴイスムの発露としての"毒"とは異なっているからなんだろうなぁとは思います。↑こんなの見てたらね、シオランのなんか、非常に澄んだ、美しい毒薬ですよね。美しい日本刀に触れてみたくなるような、身の危険と引き換えにしても良いと感じてしまうような、美しい、呪詛と憤怒の思想――シオラン53歳の時の著作ですが、しかしその感性は青年のような青さに充ちています。
人間であることの不運! 生き辛いと感じる人は、もしかしたら、シオランの著作を読むといいのかも知れない。人間であることへの憎悪、苦渋、怨嗟、そういうものがあればすこしだけでも生き易くなる人も、きっと世の中にはいるだろうから。でも、精神が疲れている人は、止めた方が良いかもしれない。彼の吐き出す"毒"は、疲れた精神を、容易にThanatosのかたへ押しやるだろうから。
智慧あることへの呪詛と、底辺の人間への、惜しみない愛、だが決してキリスト教的隣人愛ではなく。
ほんとに、この人の本が集まるのはいいんだけど、もう増えることがないんだなぁと思うと、ちょっと淋しい気分でもありますよ。決して早逝ではないんだけどね。


次。
久々に地元(つーか隣りの市――うち近辺、6つの市の住民は、どこの市の図書館も利用できるようになってるので)の図書館へ行って、ユダがらみで見つけました、松原秀一『異教としてのキリスト教』(平凡社ライブラリー)。異教としてのキリスト教 (平凡社ライブラリー)
最初の章が「ユダの系譜」だったので買ってみたのですが、これが中々面白い。
芥川の『奉教人の死』の元になった伝説を探ってみたりとか、聖遺物にまつわるあれこれとか、聖母マリアの"無原罪のおんやどり"の話とか、聖人の名前の各国における変換のされ方とか。
しかしあれだよね、異国の宗教が受け入れられるかたちってのは、洋の東西を問わないところはあるんだね。日本でも、夢の中に御仏が現れて、って、確か聖徳太子が、蘇我氏と一緒に、物部氏を討った時に、そういうのなかったっけな? で、その勝利の後、太子は四天王寺を建立したんだよね、確か。
そういうののキリスト教版みたいなのとか、載ってたりします。
聖書だけじゃないキリスト教、ってのも面白いですね。
とりあえず私は、「ユダの系譜」に載ってた、日本人の書いたユダ・モチーフを読み漁ってみようと思いますよ。


で、次こそ『スピードグラファー 2』か、『フラジャイル』もそろそろ……